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東京地方裁判所 平成2年(特わ)956号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一  本件公訴事実及び争点

一  公訴事実

被告人は、法定の除外事由がないのに、平成二年五月一五日午後一〇時ころ、横浜市神奈川区〈番地略〉の出田町埠頭C号岸壁に接岸停泊中のコロンビア共和国籍貨物船「○○号」の機械試験室内において、麻薬である塩酸コカイン粉末33.4183キログラムを所持したものである。

二  争点

右公訴事実記載の日時・場所において、麻薬である塩酸コカイン粉末33.4183キログラム(以下「本件コカイン」という。)が存在していたこと、被告人が、当時、右のコロンビア共和国籍貨物船「○○号」(以下「本件船舶」という。)に乗組員の一人として在船していたことは関係各証拠により明らかであって、弁護人ら及び被告人もこれを争うものではない。本件の争点は、被告人が本件コカインを所持していたのかどうかという点にある。

第二  当裁判所の判断

一  被告人が逮捕されるに至った経緯

関係各証拠によれば、以下の各事実が認められる。

1  本件船舶は、コロンビア共和国国営会社フロータ・メルカンテ・グラン・コロンビアーナS/Aが所有し、以前より同国ブエナベンチューラ港と日本との間の貨物輸送(今回の航海の主な積荷はバナナとコーヒーであった。)に従事していたものであるが、同船の平成元年一月以降の航行状況(ブエナベンチューラ港を出港した日と本邦における最初の寄港地及びその入港日)は次のとおりである(以下、各航海については「①の航海」というように番号で示すこととする。)。

出港日 寄港地 入港日

(平成元年)

① 一月一九日 横浜(出田町) 二月一四日

② 四月一一日 東京(お台場) 五月八日

③ 七月一八日 川崎(東洋) 八月九日

④ 一〇月八日 東京(晴海) 一一月一〇日

(平成二年)

⑤ 一月七日 川崎(東洋) 二月二日

⑥ 四月一八日 横浜(出田町) 五月一五日

2  被告人は①及び④ないし⑥の各航海に電気技師として本件船舶に乗り組んでいた。このほか、①ないし③の各航海にM(以下「M」という。)が機関清掃夫(ワイパー)として、④及び⑤の各航海にF(以下「F」という。)が機関清掃夫として、②ないし⑤の各航海にA(以下「A」という。)が電気技師として、それぞれ本件船舶に乗り組んでいた。

3  平成二年五月一一日ころ、警視庁宛にスペイン語で書かれた匿名の投書(神奈川県藤沢郵便局の消印があるもの)が郵送されてきた。その内容は、「コロンビア船籍の○○号が、コカインを五〇ないし一〇〇キログラム積んで、四月下旬にコロンビアを出航し、五月に日本に着く、このコカインは、この船の船員である丙に手渡されている。」というものであった。そこで、東京税関に調査を依頼したところ、右○○号なる船舶が実在し、五月に日本に来航する予定であること、そして同船には丙という船員が乗船していることが確認されたため、警視庁の捜査員らが、捜索差押許可状を得て、同月一五日午後八時過ぎころから、折から横浜港に入港して横浜市神奈川区出田町所在の出田町埠頭C号岸壁に接岸停泊していた本件船舶の捜索を行ったところ、第二甲板にある機械試験室(通称「インジェクター・ルーム」)の床上から高さ約三メートル九二センチメートルの天井に設置された通風管(ダクト)内の同室出入口から船首方向に約一メートル二五センチメートルの地点にある通風口付近の部分から黒ビニール袋に包まれた小荷物七個が発見され、右小荷物七個の中からテープや新聞紙に梱包された本件コカイン及び局所麻酔剤の固形物四〇個(重量合計約四二キログラム)が出てきたため、被告人が本件コカイン所持の現行犯人として逮捕された。なお、右機械試験室は、主モーターのインジェクターの修理等を行う部屋で、被告人ら電気技師の仕事場である電気修理室兼工具置場と隣接しているが(両室は壁で仕切られていて一方の部屋から他方の部屋に直接出入りできるドア等は存在しない。)、航海中は終日無施錠で、乗組員ならばいつでも自由に出入りすることができた。

ちなみに、本件の捜査の端緒となった前記投書については、被告人が犯人であることを裏付ける証拠として、検察官から刑事訴訟法三二一条一項三号に該当する書面として証拠調べ請求がなされたが、当裁判所は、平成三年一月一六日付け決定書のとおり、同投書は捜査機関に対して匿名で犯罪事実を密告するものであり、投書作成時の外部的情況が明らかでない上、匿名投書の性質上、作成者がその文面について責任を負わず、作成者に対する反対尋問の機会も全くなく、そのため作成者の知覚等に誤謬が介在したり、意図的な虚言を交える可能性が他の供述書に比べて格段に高いこと等から、これが、同号但書にいう特に信用すべき情況の下で作成されたものとは到底認められないとの理由で、その証拠能力を否定し、右証拠調べ請求を却下したところである。

二  被告人が本件コカインに関わった経緯

被告人の公判供述(公判手続更新前の被告人の供述を含む。以下同じ。)、平成二年六月二日付け及び同月四日付け(五丁のもの)各検面調書並びに同月二三日付け員面調書(以下「〈書証番号略〉」という。)のうち後に検討するとおりその信用性に疑問のある後記三の1記載の供述を除いた部分その他関係証拠によれば、以下の各事実が認められる。

1  ④の航海に出る直前の平成元年一〇月七日ころ、ブエナベンチューラ港に停泊中の本件船舶の被告人の船室内において、Mが、被告人に対して、「本件船舶には、日本に密輸するための麻薬が積まれている。ヒューストンまでは自分の部屋にあったが、今は、機械試験室のダクトに隠してある。これまで、日本の税関の警戒が厳しくて、降ろせなかった。今度、船を降りることになったので、自分の代わりにこの麻薬を日本に運んでくれないか。手伝ってくれるなら、カリ市にいる麻薬の持ち主と日本で待っている麻薬の受取人の名前・住所・電話番号を教える。報酬は多い。Fにも頼むつもりだ。」旨の話をした。なお、コロンビア共和国の麻薬事情に照らせば、被告人には、Mの言う麻薬がコカインであることの未必的認識があったと認められる。

2  翌八日の出航から数日後、本件船舶の甲板において、被告人がAにMからの前記依頼について話しかけた際、Aは、被告人に対し、「自分もMから同じ依頼を受けた。麻薬はヒューストンまではMの部屋にあった。報酬は、麻薬一キログラムあたり八五〇〇米ドルである。船に積み込まれている麻薬の総量は四〇から五〇キログラム位である。」旨話し、引き続き二人で機械試験室へ行って下から天井付近を見上げ、ダクトの通風口の辺りに麻薬が隠されているのだろうかと想像した。

3  それから数日後、被告人が、Fによばれて同人の船室に行ったところ、机上に名刺のようなものが二、三枚と地図のようなものがあり、Fから、「Mからコカインの仕事を引き継いだ。」「Mの置いていったものを見てくれ。」などと言われ、本件コカインの運搬の仕事の手伝いを求められたが、被告人は、「俺には関係ない。」と言って断り、すぐ同室を出た。

4  ④か⑤のいずれかの航海で横浜港か川崎港のいずれかの港に寄港した際、被告人が、F、A他数名の船員とシーメンセンターにいると、Fが外に呼び出されて、日本人及びアルゼンチン人らしき者二人と話し合っていた。右事実を目撃した被告人は、前記1及び3の経緯とも相まって、本件コカインの日本における受取人がFに接触してきたのではないかと想像した。

なお、⑤の航海を終えた後、F及びAは、休暇をとるとため本件船舶を下船した。

三  本件コカインに対する被告人の関与の態様

被告人が⑥の航海(以下「本件航海」という。)において本件コカインに対してどのような態様の関わりを持っていたかについて、被告人は、後述するとおり、捜査官に対する取調べに対し、第一に、④の航海の前にMから受けた本件コカインの密輸の手伝いをして欲しい旨の依頼を引き受けたことを、第二に、本件航海において、本件コカインを船から日本に降ろすのを手伝うつもりであったことをそれぞれ認める供述をしていたが当公判廷では一貫して右各事実を否認し、弁護人らもこれを争うので、以下、右の二点について検討する。

1  被告人の捜査官に対する供述内容

まず、右の第一の点について、被告人は、起訴前の捜査段階においては、Mの右依頼は断った旨の供述をしていたが、起訴から一八日経過した後に作成された〈書証番号略〉において、「Mの依頼をいったんは断ったが、Mがしつこく頼むので、『自分の責任のないことなら手伝う、報酬をもらえるなら。』と返事した。Mは、Fにも頼むつもりであると言ったので、『Fが手伝うと言うのであれば、俺は責任のないようFの手伝いをする。』と約束してしまった。これに対し、Mは、『それではFにも頼むから、引き受けてくれるなら、日本での受取人の名前、住所、電話番号を教える。報酬もやる。』と言った。」旨の供述をしている。

また、右の第二の点については、被告人は、六月一日付け員面調書(四丁のもの。以下「〈書証番号略〉」という。)において「コロンビアの麻薬密売組織に脅かされて、コカインを日本に持ち込もうとした。その意味は、密売組織の者からコカインを降ろせとか運べと指示された時にその通り動くという意味である。私としては、手伝いを断ったつもりだが、密売組織は私を指示通り動く者と見ていたと思う」旨の供述をし、更に、〈書証番号略〉においても、右第一の点についての供述部分を受けて、「今回の航海においてはFもAも下船してしまったので、コカインに関係する者は自分一人になってしまった。密売組織から何らかの連絡があれば、その仕事を手伝ってコカインを船から降ろすことになることは覚悟していた。」旨の供述をしている。

2  右各供述部分の信用性等について

右供述部分について、弁護人らは、見知らぬ異国の地で逮捕・勾留され、起訴後も連日のように取調べを受け、その間、取調警察官から暴行を受けるなどして精神的圧迫状態にあった被告人が、罪を認めれば軽い刑ですむが、認めないと長期間服役しなければならないと脅迫されて調書への署名・指印を迫られたため、やむなく被告人が、Mの依頼を承諾したとか、密売組織から指示があれば麻薬を船から下ろす手伝いをするつもりだったとの記載のある右〈書証番号略〉及び〈書証番号略〉に署名・指印したものであるとして、その任意性、信用性を争うので、まず、この点について検討する。

(1) 被告人の供述経過及び取調べ状況

ア 供述経過

被告人は、取調べ当初においては、本件船舶内に本件コカインが隠匿されていたことは知らなかったとの供述をしていたが、五月二九日の取調べにおいてポリグラフ検査の結果を聞かされたのを契機として、Mや、ブエナベンチューラ港付近でT(売春斡旋人)からコカインを日本に運んでくれと依頼されたことがあり、その話から本件船舶に本件コカインが隠匿積載されていることを知った旨の供述に転じ(六月一日付け員面調書・六丁のもの)、更に同日付けの前記〈書証番号略〉の供述をした。その後、被告人はMからの依頼を断ったとの供述を続けていたが、起訴前日の「私としてはMからの依頼を断ったつもりですが、断り方が十分でなかったかもしれません。」との供述(同月四日付け検面調書・五丁のもの。なお、同月一日付け員面調書・六丁のものにも同趣旨の供述がある。)を経て、同月五日の起訴から一八日後に前記〈書証番号略〉の供述をするに至った。

イ 取調べ状況

① 暴行、脅迫、偽計による取調べについて

被告人は、当公判廷において、「取調べの過程で、取調べ警察官から、被告人の船室にあった事件とは関係のないビニール袋やテープや紐を示され、あるいは被告人の船室のソファの下から事件関係者の電話番号を記載したメモが見つかったと虚偽の事実を告げられ、それが証拠になると言われた。頭を殴る、首を絞める、物差しで頭を叩くなどの暴行を受けた。被告人がMからの依頼を承諾した旨の記載のある調書に署名すれば早く帰国できるが、署名しなければ帰国できないと脅された。」等と供述している。

しかしながら、被告人の取調べにあたった証人色川幸也の第六回公判調書中の供述部分によれば、同人が、五月二九日以前に、セルロイド製物差しの平らな部分で欠伸やよそ見をする被告人の額を四、五回の取調べを通じて合計七、八回軽く叩いたこと、同人が被告人に対し、正直にきちっとした反省の態度を示せば裁判官はよく見てくれると話したことがあること等の事実を認めることができるが、その余の暴行、脅迫あるいは事件とは関係のないビニール袋等を示した取調べについては、同証人はこれを否定しており、この点に関する被告人の供述については、暴行、脅迫をしたり、関係のないビニール袋等を示した者に関する供述があいまいである上、そのような行為が行われた日時等についても具体性及び明確さを欠いているから、にわかに信用することはできない。

したがって、右認定にかかる取調べ状況等を前提にすると、取調べ方法に妥当性を欠く点はあるが、その内容及び程度からみて、直ちに、被告人の供述の任意性に疑いを抱かせるものとは考えられない。

② 取調べ警察官による取調べの具体的状況

他方、関係証拠によると、被告人の取調べ過程において、取調べ警察官は、「私の方では、四月一八日コロンビアのブエナベンチューラ港を出港した○○号に乗っている電気技師丙が大量のコカインを積み込んで日本に持ち込もうとしていることを知っていたから、裁判官の令状によって船を捜索し現実に大量のコカインを発見した。これだけ条件がそろっているのに君は知らない、関係ないと言っている。どう説明しますか。」(五月二三日付け員面調書)、「君は、コカインに関係ないを繰り返し、質問されたことについては、何回も違った答えをしている。このような繰返しでは、コカインに関係あると思われても仕方がないのではないか。」「私達が捜査したとおりに、君はコカインが積んであった船で日本に来た。この結びつきをどう説明するか。普通の一般の人が、この結びつきを聞いたり見たりした時に、君に関係あると判断すると思われるがどうか。」(同月二五日付け員面調書)、「いろいろ捜査した結果、君の話していることが事実でないと判断した時、君は今回のコカインに間違いなく関係していると思っていいのか。」(同月二七日付け員面調書)などの返答に窮するような発問をしている。また、六月一日付け員面調書(六丁のもの)では、船にコカインが積んであることを知っていながら船長にそのことを話さなかったことは密売の手伝いになるのではないかとの強引な発問をして、被告人に、手伝ったことになり責任を感じていると答えさせているほか、密売組織の恐ろしさを強調して、このような組織の依頼をきちんと断ることができるのか、などといった仮定の質問に答えさせている。

以上のとおり、本件取調べにおいては、取調べ警察官から、相当強引な発問が行われたことが随所に垣間見られるのであって、このような取調べにより、異国の地で逮捕・勾留され、我が国の法制度について無知な被告人が、相当程度困惑しあるいは混乱に陥った可能性を否定できないところである。

③ 起訴後の取調べ状況

警視庁総務部留置管理課長作成の照会回答書(〈書証番号略〉)によれば、〈書証番号略〉の調書が取られるまでに一二日間に及ぶ取調べが行われている。これらの取調べは、起訴後に取られた調書の内容に照らすと、前記証人色川幸也が証言するような余罪捜査のためだけの取調べとは解されず、むしろ起訴時点において十分な自白調書が取れていなかったため、起訴後も引き続き警視庁において本件の取調べをしていたものと考えざるを得ない。

右①ないし③の諸事情に照らすと、被告人は、異国の地で、一か月以上勾留されて(被告人には前科がなく、初めての勾留である。)、五月二九日以前には①記載のような取調べを受けた上、連日②のような取調べを受け、それが起訴後も変わることなく取調べが続けられているという経過の中で、前記アのとおり供述を変遷させて行き、〈書証番号略〉及び〈書証番号略〉の供述をするに至っているのであって、右にみた取調べ状況等に照らすと、右各供述部分の任意性はともかく、その信用性については、疑問を差し挟む余地があるものというべきであるから、更に、右各供述部分を裏付けるに足りる証拠が存在するか否かを検討することとする。

(2) 右各供述部分以外の証拠により認められる事実との関係

ア Mの本件コカインの密輸の手伝いの依頼を承諾したとの供述部分について

前記二の1及び2で認定したとおり、Mは、被告人に対して、本件船舶に麻薬が積み込まれた経緯、麻薬の隠匿場所の概略、麻薬の持ち主がカリ市にいること等、本件コカインの密輸に無関係な者には秘匿しておくべき事実を話しており、また、本件船舶がブエナベンチューラ港を出港後、Fは、被告人をその部屋に呼んで、Mから本件コカインの仕事を引き継いだことを告げた上、引き継いだ名刺のようなもの二、三枚や地図のようなものを見せようとしている。右の事実関係を見る限り、被告人がMの依頼に対しては少なくともこれを明確には拒絶しなかったことが認められ、更に進んで被告人が本件コカインの密輸の手伝いを承諾したものと推認されなくはないのである。

しかしながら、他方で、被告人は、Mから日本での受取人の名前、住所、電話番号は教えられていない上、前記二の3で認定したとおり、被告人は、本件船舶がブエナベンチューラ港を出港後間もなく、Fの船室で同人から名刺のようなものと地図のようなものを示されて、本件コカインの運搬の仕事の手伝いを求められた際も直ちにこれを断っており、その後は④及び⑤の航海を通じてFあるいは他の者から本件コカインの密輸等に関して働き掛けを受けた形跡がない。また、本件船舶の捜索の際、被告人の居住する船室も捜索されたが、本件コカインとの関連を疑わせるようなメモ類等の証拠は何ら発見されていない。そして、被告人自身も、④の航海において、Fに呼ばれる前にAとともに機械試験室に行って一度だけ天井付近を下から見上げた時以降本件で逮捕されるまで、本件コカインが真実存在するのか否かを実際に確認したり、他の者に発見されたり持ち去られたりしないように機械試験室を見回ったりするなど、本件コカインの保管や密輸のために何らかの具体的な行動をとったことを窺わせる証拠も存在しない。

なお、警視庁科学捜査研究所第一化学科主事谷口高広作成の鑑定書及び証人谷口高広の第四回公判調書中の供述部分によれば、被告人の作業上衣(平成二年押第七六〇号の35)の背部に、本件コカインが発見されたダクトの通風口の蓋のネジ付近に上塗りされた白ペンキと同種類の白ペンキが付着していることが認められるが、他方、被告人の公判供述及び被告人の六月二六日付け員面調書(一部問答形式のもの)によれば、本件船舶内には、他にも白ペンキで塗装された部分が随所にあり、これらの部分のペンキが被告人の右作業上衣に付着した可能性も十分考えられ、しかも右作業上衣は本件で逮捕される一年前から使用していないというのであるから、右ペンキの付着をもって、被告人がダクトに関して何らかの工作を行ったことを窺わせる証拠となるものではない。

右の事実関係に照らすと、被告人は、Mの依頼に対して、これを承諾し、真実、本件コカインの密輸を手伝う意思を有していたかどうかについては大きな疑問のあるところである。

イ 本件航海において密売組織の指示等があれば本件コカインを本件船舶から降ろすつもりであったとの供述部分について

〈書証番号略〉中の、F及びAが⑤の航海終了後下船した結果、本件航海では本件コカインの関係者が自分一人になってしまったので、密売組織から何らかの連絡があれば、その仕事を手伝ってコカインを船から降ろすことになることは覚悟していた旨の供述部分については、前記アでみたとおり、被告人が④の航海に際し、Mの依頼を引受けたという前提自体になお疑問があるところである。また、この点をおくとしても、もし被告人が今回の航海における唯一の関係者であったというのであれば、被告人としては、Fあるいはその他の者から、税関の厳しい警戒の中をくぐり抜けて麻薬を受取人に渡す方法、受取人の名前・住所・電話番号といった連絡方法や識別方法、報酬の受取方法等につき引き継ぎを受けるなどしておくのが当然であるところ、関係証拠を子細に検討しても、被告人がこのような引き継ぎ等を受けた形跡は窺われず、被告人の右の供述部分には、具体的な裏付けが欠けているといわざるを得ない。

更に、〈書証番号略〉及び〈書証番号略〉の各供述部分においては、被告人が本件航海において、密売組織から連絡があれば本件コカインを降ろさざるを得ない、と考えた動機として、Mにコカイン密売を手伝うことを承諾してしまった、あるいは、不十分な断り方をしたため、密売組織から指示どおりに動くものであると見られてしまったことから、もし密売組織の指示を断れば自分や家族らに対し報復が加えられるので断れない、という趣旨のことを述べているところ、関係証拠を子細に検討しても、④の航海から本件航海に至るまで、本件コカインに関し、コカインの密売組織が被告人に対して何らかの働き掛けをした形跡は全く窺われず、この点は、一般論としてはともかく、本件航海において被告人が右のような考えを持った動機としては、なお現実性、具体性に欠けるものといわざるを得ない。

ウ 被告人の公判供述の中には、⑤の航海を終えて本件航海に出る前の平成二年四月一六日、一七日ころ、F及びAが、休暇をとるため本件船舶を降りる際、被告人に対して、麻薬が船の中にまだあるから気をつけるようにとそれぞれ話かけたとする部分があるが、右のFらの言葉自体、被告人に対し麻薬の管理等を依頼するような意味内容をもつものとはいえない上、仮にこれがFらが被告人に対し本件コカインの密輸の仕事の引継ぎを求めたものと解されるとしても、これに対して被告人は、即座に自分には関係ないと言ったというのであるから、結局、右の事実関係から、被告人が本件コカインの密輸の仕事を引き継いだものと推認することはできない。

また、証人花田憲博及び同中嶋賢臣の第三回公判調書中の各供述部分によれば、本件コカインの捜索の開始にあたり、船長が指示して乗員全員をサロン兼食堂に集合させた際に、被告人一人だけが約一〇分集合に遅れたこと、また、被告人が機械試験室で本件コカインの捜索押収に立ち会った際には、顔をひきつらせて緊張した表情をつくり、本件コカインが天井から降ろされる作業から視線をそらしたり、乾いた上唇を舌でなめ、額の汗を手で拭うなどの挙動を示したことがそれぞれ認められ、検察官は、これらの事実は被告人が犯人であることを示すものだと主張する。しかしながら、被告人の公判供述、B1・B2・B3・B4(六月四日付け)及びC1・C2・C3・C4・C5の各員面調書(各不同意部分を除く)によれば、被告人は、捜索開始当時、自己の船室でシャワーを浴びていたため集合に遅れたことが認められ、また、押収時の挙動についても、被告人は、前記のとおり、Mから麻薬が機械試験室内のダクトの中に隠匿されていることを知らされていた上、現実に本件コカインが発見されて、自分がその所持の被疑者として扱われていたのであるから、精神的動揺を示すのは自然な感情であり、右各事実が被告人が犯人であることを示すものとはいえない。

更に、証人Gの証言によれば、同人は、本件コカインについて、日本における荷受人と称するコロンビア共和国籍の人物から、船で横浜に着くコカインを受け取りに赴く者に与える報酬がないとして、借金の申込みを受けたことが認められるが、右コロンビア人は同人と親しい関係にあったことは窺えないから、同人に事情を明かして借金の申込みをするのは不自然であり、右コロンビア人が本件コカインの真実の荷受人であったとするには疑問があるものの、仮に荷受人がいたとしても、被告人が右荷受人に本件コカインを渡す役割を担っていたことを窺わせる証拠は全く存在ない。

したがって、右のいずれの事実についても、このことをもって、被告人がMの前記依頼を承諾し、本件コカインを降ろすつもりであったことを裏付ける証拠となるものではない。

以上(1)及び(2)で検討してきたところによると、〈書証番号略〉及び〈書証番号略〉中の前記1の各供述部分は、その内容自体具体性に乏しい上、これを裏付けるに足りる証拠はなく、かえって、その余の関係証拠から認められる事実関係並びに被告人の供述経過、取調べ状況等に照らすと、その信用性に多々疑問を差し挟む余地があり、たやすく採用することはできない。

四  本件コカインの所持罪の成否

麻薬取締法二八条一項にいう麻薬の所持とは、人が麻薬を保管する実力支配関係を内容とする行為であって、諸般の事情からみて、社会通念上、麻薬を事実上管理、支配している状態にあることをいうと解される。

ところで、本件コカインは、前記のとおり、本件船舶の第二甲板にある機械試験室の天井に設置された通風管(ダクト)の内部に隠匿されていたものであるところ、関係証拠によると、右機械試験室は、航海中は終日施錠されることなく、乗組員ならば誰でも自由に出入りすることが可能であったこと、被告人は、機械試験室に隣接する電気修理室兼工具置場を仕事場としていたが、電気修理室兼工具置場と機械試験室は壁で仕切られていて、一方の部屋から他方の部屋に直接出入りできるドアはなかったところ、被告人は、機械試験室には普段あまり出入りすることがなく、本件航海では、電球を交換するために同僚とともに同室に入ったことがあるに過ぎないことが認められ、右機械試験室は被告人が直接管理、支配している場所とはいえない。

もっとも、右の隠匿場所は、事情を知らない者にとっては発見困難な場所であるから、被告人が本件コカインに対して有している利害関係その他の事情如何によっては、被告人が本件コカインを直接管理、支配していると認められる場合のあることは否定できない。しかしながら、前記のとおり、被告人は、本件船舶の機械試験室天井のダクトの中に本件コカインが隠匿されているとの認識を持っていたものの、Mの本件コカインの密輸を手伝うことの依頼を引き受けたとはいえず、また、④の航海から本件航海に至るまで、実際に本件コカインを見たり、具体的な隠匿場所を調べたりしたことを窺わせる証拠もない。更に、本件航海において、被告人が、麻薬密売組織に対する恐怖心から、その指示があれば、本件コカインを降ろそうと考えていたとも認められない。

以上の事実関係に照らすと、被告人は、機械試験室天井のダクトの中に本件コカインが隠匿されていることを、Mから聞かされて知っていたが、本件コカインを見たこともなければ、その正確な隠匿場所、個数ないし重量、具体的な荷姿、ダクトから取り出し船から降ろす方法等については何ら具体的な情報を有していなかったのであり、本件において、社会通念上、被告人が本件コカインを事実上支配、管理する状態にあったとは到底認められず、被告人が、本件コカインを所持していたとは認められない。

第三  結論

以上によれば、被告人が、本件コカインを所持していたとは認めることができないから、結局本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰し、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。

よって主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官吉本徹也 裁判官戸倉三郎 裁判官上山雅也)

《参考・決定》

主文

検察官からの手紙一通(平成二年東地領第三一〇八号符第五五号。請求番号甲第一八六号証)及び封筒一枚(同符第五六号。請求番号甲第一八七号証)についての証拠調べ請求は、いずれもこれを却下する。

理由

検察官は、手紙一通(平成二年東地領第三一〇八号符第五五号。請求番号甲第一八六号証。以下「本件手紙」という。)を刑事訴訟法三二一条一項三号に該当する書面として証拠調べを請求し、これが特に信用すべき情況の下に作成されたものである理由として、本件手紙の記載内容のうち多くの部分が事実と合致しているかあるいはそれに近かったことを主張する。

そこで検討するに、第四回公判調書中の証人色川幸也の供述部分によれば、本件手紙は平成二年五月一一日に匿名で警視庁宛に郵送されてきたことが認められるところ、提示命令により検察官から提示を受けた本件手紙及びその訳文によれば、本件手紙には、(1)コロンビア船○○号が五〇ないし一〇〇キログラムのコカインを積んで同年五月に日本に到着すること、(2)本件手紙の作成者の友人某(以下「甲」という。)が、ある組織の命令によりコカインの同船への荷積みに関与し、同船の船員である丙(右訳文中には、南米では「丙」と呼ぶ地方もあるとの記載がある。)に渡したこと、(3)甲は日本への連絡員としても働き、よく〈電話番号省略〉に電話をかけており、その架設場所には日本人と結婚しているDという女性が住んでいること、(4)甲は、Dのほかにも、運び屋の電話番号(四か所)に電話して、「Dに連絡しろ」とか「Rに一キログラム回してくれ」とか言っているのを見たことがあり、その他にも一か所の運び屋の電話番号を知らせること、(5)甲は組織から脅かされ自らの意思に反して日本への連絡をしていると思うので、甲を救うため、日本当局による厳しい取締りを求めるなどの記載のあることが認められる。そして、関係各証拠によれば、右(1)の事実(ただし、コカインの量は公訴事実記載のとおり)が認められるほか、(2)前記船舶の日本寄港の際、同船に被告人が船員として乗り組んでいたこと、(3)前記番号の電話の架設場所には、「D」又は「D」を通称名とするコロンビア人女性が日本人と結婚して居住しており、同女のもとには、平成元年夏ころから「H」と称するコロンビア人を始め多くの者からスペイン語で連絡が入るようになり、平成二年二月ころには、「E」と称する女性からコカイン隠匿の依頼があったこと、(4)本件手紙に運び屋のものとして記載のある電話番号の中には、コロンビア人女性の自宅やコカイン関係の交友関係のあるエクアドル人女性の自宅が含まれていたことが認められる。

ところで、前示のとおり、本件手紙は捜査機関に対して匿名で犯罪事実を密告する投書であるから、手紙作成時の外部的情況は明らかでない。しかも、検察官が指摘する本件手紙の記載内容と客観的事実との符合は、本件手紙の作成者が本件に関係するコロンビアの麻薬密売組織の内情に通じていたことを窺わせるものではあっても、被告人が本件に関与しているとの記載部分の信用性を何ら裏付けるものとはいえない。すなわち、本件手紙では、その作成目的について、作成者の友人を組織から救うためとしているが、日本の警察への密告と友人の組織からの救出との関係が必ずしも明らかではなく、作成目的自体に疑問が残る。そのうえ、本件手紙は、作成者が明らかでない匿名の手紙であって、その性質上、作成者が手紙の文面について責任を負うことはなく、かつ、事後に内容の真実性について作成者に反対尋問などの追及をする機会を全く欠くものであるから、作成者の知覚等に誤謬が介在したり、あるいは被告人を罪に陥れるなどの意図に基づいて虚言を交える可能性は、他の供述書に比べて格段に高いものといわざるを得ない。したがって、本件手紙が特に信用すべき情況の下で作成されたものとは到底認められないから、その証拠能力を欠くというべきである。更に、本件手紙の証拠能力が認められない以上、これが封入されていた封筒も、証拠調べの必要性がないから、その証拠能力もまた欠くものというべきである。

よって、本件手紙及び前掲封筒はいずれも証拠能力を欠くものであるから、刑事訴訟規則一九〇条一項に基づき、検察官の証拠調べ請求をいずれも却下することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官安井省三 裁判官中谷雄二郎 裁判官上山雅也)

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